福澤克雄がリメイク版の監督を務めた『私は貝になりたい』は、1958年にオリジナルドラマ版が放送され、1959年に映画版、1994年にドラマ版、そして2008年に福澤克雄の監督で劇場版がリメイクされています。
『私は貝になりたい』はBC級戦犯の問題を扱った極めて社会性の高い作品のため、それぞれのバーションの製作時の政治状況によって、微妙な改変が加えられています。その変遷をみてみましょう。
1958年オリジナルドラマ版
オリジナルドラマ版の監督は岡本愛彦(よしひこ)さんで、脚本を橋本忍さんが担当しました。戦時中朝鮮半島で生まれた岡本さんは、朝鮮分断の最大の責任は日本の帝国主義にあったと考え、後に韓国・朝鮮人BC級戦犯者のドキュメンタリー番組も制作されています。オリジナル版の演出は岡本さんの日本帝国主義への批判があったと考えられます。
オリジナル版の冒頭、東京裁判でA級戦犯の東条英機に対して死刑判決が言い渡される映像が映し出されます。東条は英語で読み上げられる死刑判決の内容を、ヘッドフォンから流れる同時通訳を聞いて、深々とお辞儀をします。この映像から東条は十分理解して判決を受け入れたと感じられます。
一方劇中、フランキー堺さん演じる清水豊松には、満足な弁護人がつきません。検事は日本軍の統制について知らない上に、言葉が通じないので、豊松は満足な自己弁護もできず、死刑判決を受けます。
この対比から、岡本さんが描こうとしたテーマの1つが、A級戦犯とBC級戦犯の待遇差であったと考えられます。1958年5月に巣鴨プリズンの閉鎖にともなって、この問題を取り上げる事ができるようになったのでしょう。
また、A級戦犯の東条とC級戦犯の豊松が死刑になることによって、画面に描かれない天皇や、戦犯として処刑されることを免れた人達の戦争責任の問題が暗示されています。
『私は貝になりたい』の劇中、豊松が矢乃司令官の散髪をする場面の最後に、矢野司令官は以下の様に言います。

矢野:ただただ命令で動いた末端のものが死刑だの終身刑だので灰色の毎日を過ごしているんだが、こんな事実を国民は知っているのかね。新たに警察予備隊に志願するものなどはこの事実を明確に知ってるんだろうかね。民主的な軍隊、そんな絵に描いた餅みたいなものは世界中どこを見てもありはせんよ。ね、清水君。わしは正直なところ、日本の新しい憲法の中で、一番いいものが、もう軍隊を持たないということだと思っていたんだがね。
この台詞は、1950年8月10日の警察予備隊令への批判と考えられます。またBC級戦犯を作り出してしまう軍隊を持つよりも非武装の方がよいとの主張です。1958年の放送当時、すでに警察予備隊は自衛隊に改組されていました。
その過程で、戦犯を免れた旧帝国陸海軍の軍人が大量に採用され、海上自衛隊と陸上自衛隊には、旧日本軍の文化が色濃く引き継がれていきました。そのため、ひとたび戦争に巻き込まれれば、また末端に戦争犯罪の責任が押しつけられ、大量のBC級戦犯が生まれる恐れがありました。
『私は貝になりたい』のタイトルと遺書の原作者、加藤哲太郎さんは、1952年雑誌『世界』に戦犯者の匿名で発表した「私達は再軍備の引き替え切符ではない」の中で、以下のように批判しています。
戦犯釈放は再軍備のための憲法改悪でたかぶるであろう国民の気持を抑える鎮静剤として用意されている。その鎮静剤はすでに処方済みなのだ。
「生まれ変わるなら貝になりたい」といいう遺書を書いた後、豊松が処刑されていく場面は、MPや教誨師に付き添われて、豊松が処刑室にむかい、処刑室の十三階段を登る所で場面が終わります。
1959年劇場版
1959年4月12日公開の劇場版の監督・脚本は橋本忍氏です。橋本が監督した1959年劇場版には、1958年オリジナルドラマ版の冒頭にあった、東京裁判の映像がありません。
このため、満足な弁護人もつけてもらえず、言葉も通じない連合国側の検事によって、量刑が定められる豊松の姿だけが描かれます。その結果、BC級戦犯の裁判が、勝者である連合国、特にアメリカの都合によって、極めてずさんに進められたとの印象を、観衆に与えます。
矢野司令官の台詞は、オリジナルドラマ版と同じですが、このような文脈で語られるため、無理矢理日本を再軍備させようとしているアメリカへの批判のように受け止められます。アメリカの都合によって、戦争に巻き込まれれば、再び末端の兵士にBC級戦犯が生まれてしまう。だったら、軍隊を持たずに非武装中立の方がよいと、主張しているように解釈されます。
日本の再軍備については、旧ソ連が反対していました。つまり反米的視点から捉えると、旧ソ連よりの意見になります。
豊松が処刑されて行く場面では、教誨師に付き添われて処刑室に向かう様子は、1958年オリジナル版とほぼ同じですが、処刑室の描写がより詳しくなり、黒頭布をかぶせられた豊松が、絞首台への階段を登っていく場面で終わります。この場面も、アメリカ軍による豊松の処刑をより具体化させ、反米感情を煽る効果があります。
劇場版が公開された1959年は、翌年に日米安保条約の更新を控えていました、そして当時の首相は、安倍晋三の祖父の岸信介でした。公開されたアメリカの機密書類によると、1958年の総選挙について、岸はソ連中国による内政干渉が、国内の民族主義感情を引き起こし、自分の支持を高めたと述べています。
ソ連の主張に沿った、1959年劇場版の改変にも同様の効果があります。この映画を見た革新系支持者は、非武装中立がいいと思い、保守民族主義者は、反動として、自主防衛力の強化を志向するようになります。
1959年劇場版の改変について、映画監督の黒澤明が「橋本よ……これじゃ、何か大事なものが足りなくて、貝にはなれないんじゃないかな」と述べたと言われています。黒澤は、オリジナル版冒頭にあった、東京裁判映像の欠落を指摘したのでしょう。
しかし、橋本忍は改変の理由を一切、述べていません。反米感情を煽る一方、民族主義者を結束させる効果のある改変は、岸政権からの要請だったと考えられます。
1994年ドラマ版
リメイクドラマ版は1994年10月31日に放送されました。1994年ドラマ版が作られた頃、世界では地域紛争が頻発していました。1990年に日本人も人質になった湾岸危機が発生し、1991年にソ連が崩壊しました。1991年から続くユーゴスラビア紛争では、民族浄化のような極めて深刻な戦争犯罪が行われ、1993年旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷がおかれました。
また日本では1992年にPKO協力法が成立し、1992年にカンボジア、1993年にはモザンビークで自衛隊が平和維持活動にあたりました。日本も地域紛争と無縁ではなく、なし崩し的に戦争に巻き込まれる危険が、意識される時代になっていました。
1994年版の冒頭では、オリジナル版にあった東京裁判の映像に変わって、湾岸戦争やベトナム戦争、朝鮮戦争など、太平洋戦争後に世界各地で起こった戦争の映像が流されます。そして、劇中では真珠湾攻撃、東京大空襲、広島原爆投下などの映像が挟まれています。
この演出は、世界各地の戦争を、日本人が体験した太平洋戦争と結びつけ、自らの事として捉えさせる効果があります。そして、この文脈での矢野司令官の言葉は、人類共通の目標として、紛争解決の手段としての武力の放棄の重要性を訴える意味があったと考えられます。
つまり、日本国憲法第9条の理念の重要性を再確認する、護憲の意味があったと考えられます。そして、主張としては小山内さんが『金八先生』の「腐ったミカンの方程式」や「入試十日前心得」で訴えた事が引き継がれています。
また、主題歌は小椋佳さんの『藍色の時』でした。小倉さんは1972年に、浜松大空襲で焼け残って、戦後復興のシンボルとなったプラタナスの木を題材にした『小さな街のプラタナス』を発表しています。
浜松市では毎年8月15日に「プラタナスコンサート」が行われています。このコンサートは、もともと1992年当時、第一勧業銀行の浜松支店長だった小椋さんが命の尊さや戦争と平和をテーマに企画したものが、現在も引き継がれているものです。
1994年ドラマの放送前、1993年8月9日から1994年6月30日までは、細川護熙内閣・羽田孜内閣のいわゆる非自民・非共産連立政権の時期で、政権からの干渉は少なかったと考えられます。
2008年劇場版
福澤克雄が監督した2008年劇場版では、橋本忍が脚本の改変を行っています。脚本の改編として重要な箇所が2つあることを申河慶(2009)が指摘しています。また、福澤の演出にも、従来作にない改変が行われた部分があります。
ドラマの冒頭、1958年オリジナル版の東京裁判や1994年ドラマ版の海外の戦争など、戦争と直結した映像は挿入されていません。しかし、物語の途中に、和歌山大空襲を表したと考えられる映像が映し出されます。
和解山大空襲は、2008年版で豊松を演じた中居正広氏が所属したジャニーズ事務所の創業者、ジャニー喜多川氏が疎開時に体験したことで知られています。
女の子の死体が抱えられゆっくりと運ばれて、野積みにされた死体の上に置かれて、油がかけらます。そしてその後に、焼け野原になった街が移されます。この映像は、暗に無差別空襲を行ったアメリカ軍の非人道性を主張しています。

次に、豊松(中居正広)から散髪してもらいながら話す矢野司令官(石坂浩二)の台詞から、軍隊の非民主性や日本の再武装への批判が削られています。
矢野:ただただ命令で動いた末端のものが死刑だの終身刑だので灰色の毎日を過ごしているんだが、こんな事実を国民は知っているのかね。
新たに警察予備隊に志願するものなどはこの事実を明確に知ってるんだろうかね。民主的な軍隊、そんな絵に描いた餅みたいなものは世界中どこを見てもありはせんよ。ね、清水君。わしは正直なところ、日本の新しい憲法の中で、一番いいものがもう軍隊を持たないということだと思っていたんだがね。
1958年オリジナルドラマ版や1959年劇場版にない、矢野司令官の処刑室での場面が加えられ、アメリカ軍による空襲について、以下のように批判した上で、責任は自分にあるとして、豊松たち部下の減刑を求めます。

連合国総司令官ダグラス・マッカーサー元帥、ならびにアメリカ合衆国大統領トルーマン閣下に、元日本帝国陸軍中将矢野まさひろが申し上げる。ハーグ条約の陸戦法規、ならびに空戦法規案にによれば、無防備都市、集落、住宅、建物はいかなる手段を持っても攻撃、または砲撃は禁止されておる。
従って、軍事基地、軍事施設でもない日本の主要都市の住宅を目標に、焼夷弾の絨毯爆撃により焼き尽くし、戦果に巻き込んではならぬ庶民数百万人殺戮し、数千万に及ぶ罹災者を出したアメリカ軍による日本の都市攻撃は、あまりにも、明らかに戦争犯罪の恐れある。
爆撃命令の立案者、ならびに作戦実施の航空司令官をただちに軍事法廷に招致し、その詳細を裁くべきである。
この台詞は、私は『貝になりたい』における捕虜虐殺のモデルとなった、戦争末期に頻発した米軍爆撃機搭乗員の処刑事件の1つ、東海軍事件の首謀者、岡田資中将の戦犯裁判での発言を基にしています。
戦犯裁判での発言だけを聞くと、岡田は国際法に通じた部下思いの上官のように思えます。岡田を主人公とした大岡昇平の小説『ながい旅』によって偶像化され、多くの日本人がそう思っていました。
『「BC級裁判」を読む』によると、2002年に公開された法務省の聞き取り調査の結果は違っていました。実際には、東海軍法務部長の少将をかやの外に置いて、捕虜を軍律規定に従って裁き、処刑したとの口裏合わせを部下たちにと行っていました。この事が原因で、少将は自らの名誉を守るため自殺しています。
岡田中将の裁判を担当した佐伯弁護人は「無差別爆撃は国際法違反。……」という主張について、「この事件はそうでも言わなければ弁解できない」としています。つまり、岡田の米軍批判も、人道上の信念から出たものではなく、陸軍中枢部を守るためのものだったのです。
岡田中将の側近だった保田直文少佐は1962年、法務省の聞き取り調査に以下のように答えています。
終戦直後の状態は精神的にもショックを受けた。階級の上の人に対しては不満で、階級の下の人は終始変わらず立派なものだと感じた。これが巣鴨生活を一貫して感じたことであった。
中央部は卑怯であった。無差別爆撃の敵機搭乗員を現地で処刑せよという電報は出さなかったと証言している。新聞にも出た事実なるにかかわらずこれを否定している。
人間不信となった保田少将は、1952年サンフランシスコ講和条約の発効とともに釈放された後も、家族のもとに帰りませんでした。保田少将と娘の村田佳代子さんが再会したのは、約50年後です。
岡田資は最後には、自分の過ちを認め、一人で責任を負って処刑されました。しかし、彼らの嘘のせいで法務少将はなくなり、保田少将親子は50年間引き裂かれたのです。
『明日への遺書』の映画化に合わせて、2007年に角川文庫から再刊された『長い旅』の中島岳志氏の解説には「軍律会議は開かれなかった」とすでに書かれています。2008年公開、福澤版『私は貝になりたい』脚本の橋本忍は、岡田中将の主張の背景を知っていながら、あえて矢野司令官の台詞を加えたと考えられます。
豊松が処刑されていく場面にも、米軍憎悪を煽る演出がされています。1958年版や1959年版では、処刑室に連行される豊松の近くには、日本人教誨師が付き添っています。しかし、福澤版では教誨師にピントがあっておらず、存在がよくわからず、従来作より多数の米兵が豊松を取り囲んでいます。

また、福澤版の豊松は片足が不自由な設定で、足を引きずる豊松を米兵が小突く描写があり、処刑台に上がった豊松の方を掴んでロープの前にすえる描写もあります。
このように2008年版は従来の『私は貝になりたい』と比較して、反米感情をあおる改変が行われています。そして、この反米改変の裏にあるものを示すのが、メインロケ地です。
豊松は高知に暮らす床屋という設定で、1994年ドラマ版では高知県が制作協力にクレジットされています。ところが、2008年版では、島根県隠岐諸島西ノ島の国賀海岸がメインビジュアルに使われるなど、メインロケ地となっています。

西ノ島はロシア軍港のウラジオストックから一直線にあり、高碕山にはロシア海軍を監視する眺望台がありました。また、日本海海戦時にはロシア兵の遺体が漂着し、それを埋葬したロシア兵の墓があり、親ロシア的な土地柄です。

福澤克雄は2023年放送の『VIVANT』のロケも親ロシア国であるモンゴルで行っています。『私は貝になりたい』のロケを西ノ島で行ったのも、親ロシアの土地柄だからと考えられます。
従って、福澤版『私は貝になりたい』で、従来作と比較して、反米感情を煽る改変が行われているのは、その反動として、親ロシア感情を高めるためだったと考えられます。
私は『貝になりたい』の著作権については、橋本忍と加藤哲太郎さんの間の裁判で確定した経緯があります。反米親ロシアを助長する改変は、加藤さんの御遺族をはじめとする関係者への裏切り行為であり、橋本忍の独断で行われたものではないと考えられます。
福澤克雄監督『私は貝になりたい』の公開と同じ2008年に、『長い旅』を原作として、藤田まこと主演で映画『明日への遺言』が公開されています。橋本による脚本の変更には、大きな力が働いていたと考えられます。
1959年映画版の改変が当時の岸信介政権の意向にそったものであったと考えられる事から、2008年福澤版の改変も当時の麻生太郎政権からの要請だったと考えられます。
2008年福澤版のプロデューサー、瀬戸口克陽の「瀬戸口」は結婚前の性のワーキングネームで、本名は小渕克陽であり、衆議院議員小渕優子の配偶者です。
小渕優子は, 2008年9月24日 麻生内閣で少子化対策、男女共同参画担当の特命担当大臣として初入閣しています。これは、瀬戸口が、『私は貝になりたい』の反米親露改変に成功した事に対するバーターだったと考えられます。