9. 4 『恋空』:役名の秘密

  1. タイトルと公開日の秘密
  2. 九州ロケ地の秘密
  3. 関東ロケ地の秘密
  4. 役名の秘密
  5. 恋空ソング(準備中)

『恋空』のタイトル、公開日そしてロケ地には、小山内さんの尊い犠牲に感謝して、日本をより文化的な国にして行って欲しいという願いや、マイノリティの人権と尊厳、共生に関わっている事が、わかりました。『恋空』の登場人物の名前も、きっと小山内さんのそういった主張へのオマージュが隠されていると考えられます。

田原美嘉(新垣結衣)

田原美嘉(新垣結衣)

田原の意味
新垣さんが演じた主人公の名前は、田原美嘉(たはらみか)です。姓の田原は、映画では「たはら」と読みますが、主要ロケの行われた九州では「たばる」と読みます。

九州で田原(たばる)と戦争が結びつくのは、明治維新期の最大の内戦、明治10年 (1877) の西南戦争の激戦地、田原坂の戦いの田原坂です。

田原坂は熊本県熊本市北区植木町(旧植木町)にありますが、田原坂の近くに、春馬さんが演じた桜井弘樹の姓と同じ「桜井」という地名があります。この事からも、やはり田原美嘉の姓「田原」は田原坂から取られたと考えられます。

美嘉の意味
次に下の名前の「美嘉」です。「みか」と言う名前の2文字目に「嘉」が使われていますが、2007年に公開された若者向け映画のヒロインの名前としては、古風な気がします。普通は「美香」や「美佳」とするでしょう。「嘉」が使われたのにも意味があるはずです。

美嘉の姓「田原」の由来が、田原坂の戦いとすると、関係する「嘉」は、佐賀の異表記「佐嘉」です。

佐賀は、田原坂の戦いの負傷者を救済しようと、現在の日本赤十字社の前身・博愛社を設立するため奔走した佐野常民の出身地です。現在「さが」の漢字表記は「佐賀」ですが、明治2年(1869)に「佐賀」に統一されるまでは「佐嘉」と書く場合が多くありました。

40才頃の佐野常民(日本赤十字社蔵)

美嘉と佐野には、恨みを乗り越え、生命を慈しんだという共通点があります。『恋空』でヒロの事が好きな元カノの咲は、男達に美嘉を襲わせたり、階段から突き落としてヒロとの赤ちゃんを流産させたりします。

しかし、ヒロの看病に行った病院で妊娠した咲を見かけた時、美嘉は咲のお腹に手を当てて、お腹の中の赤ちゃんに「元気に生まれてきてね」と優しく声をかけます。美嘉は恨みを乗り越えて、生まれてくる新しい命を慈しんだのです。

咲のお腹の赤ちゃんを慈しむ美嘉

一方、佐野が乗り越えた恨みについては、田原坂の戦いを含む西南戦争の3年前、明治7年(1874)の佐賀戦争を知る必要があります。教科書でこの内戦は「佐賀の乱」と書かれますが、この戦いに先立って佐賀藩で士族の反乱、蜂起は起こっていません。薩摩出身の大久保利通を中心とする、政府軍の攻撃を一方的に受けたものです。

薩摩軍が先に蜂起し、これに政府軍が応戦した、西南戦争でさえ「戦争」とされている事と比較すると、明らかに不当な扱いです。五代友厚が、『天外者』での春馬さんの熱演によって名誉回復するまで「悪の政商」と紹介されていたのと同じ構図です。

佐賀戦争については、下記のリンクのNHKホームページに説明があります。

佐賀 「乱」ではなく「佐賀戦争」 江藤新平の功績に光を

佐賀戦争によって、佐賀城は炎上焼失し、首謀者とされた初代司法卿・江藤新平と北海道開拓の父・島義勇は、斬首刑となり、さらし首にされる辱めを受けました。つまり、佐賀出身の佐野常民にとって、政府軍は仲間を殺した憎い敵(かたき)です。

しかし、佐野は報道される田原坂の悲惨な状況に、薩摩軍・政府軍の負傷者を分け隔てなく救済しようと、日本赤十字社の前身・博愛社を設立するために奔走し、征討総督の有栖川宮熾仁親王に博愛社の設立を請願して許可を得ました。

佐野は政府軍への恨みを乗り越えて、生命を慈しんだのです。美嘉が咲のお腹の赤ちゃんを慈しむのは、佐野へのオマージュと考えられます。

「入試十日前心得」で、小山内さんは金八に「文化は積み重ね」と語らせ、日本をより文化的な社会にして、次の世代に伝えて欲しいと訴えました。

佐野は以下のように演説して、日本が文化的な社会になっていくために、赤十字運動が重要である事を訴えています。

文明開化といえば人はみな法律や精密な機械ができることをいうが

赤十字のような活動が盛んになることこそが文明開化の証である


佐野常民の貢献については、下記のリンクの日本赤十字社ホームページに説明があります。

佐野常民生誕200年 ~日本赤十字社を創った男の素顔~

佐野が赤十字の存在を知ったのは、明治維新以前の慶応3年(1867)に、佐賀藩からパリ万博に派遣された時です。つまり、日本赤十字設立のきっかけは、明治政府ではなく佐賀藩にあります。

これに敬意を表して、明治2年(1869)に「佐賀」に統一される前に多く用いられた「佐嘉」の「嘉」が、美嘉の役名に使われたと考えられます。

そして、最後に残った「美」ですが、田原坂の戦いをきっかけに作られた日本赤十字社と、皇室は深い関係にあり、日本赤十字社の名誉総裁は皇后陛下が代々務められています。

そして、『恋空』が公開された2007年頃は、当時皇后陛下だった美智子上皇后が名誉総裁でした。

皇后陛下 慈しみ 日本赤十字社名誉総裁としてのご活動とお言葉

皇后陛下 慈しみ 日本赤十字社名誉総裁としてのご活動とお言葉

美智子さまの母方祖父は、佐野常民と同じ佐賀県出身で、美智子様はドレスに佐賀の伝統織物「佐賀錦」を取り入れるなど、母方出身地の佐賀の事を大切にされています。

佐賀錦でマーガレットと百合の模様が配された美智子様のイブニングドレス

美智子様が経験された困難と『恋空』で美嘉が経験する困難には、共通点があります。『恋空』で美嘉は流産を経験しますが、美智子様も流産されたことがあります。

また『恋空』で美嘉は黒板に悪口を書かれますが、はじめて民間から皇室に入られた美智子様は、皇太子妃時代から、タブロイド誌に根拠のない悪口を書かれてきました。皇后時代は、その心労のため、失声症になられた事もあります。

そして、美智子様は、皇太子妃時代の1975年、当時皇太子だった上皇様と、皇族として戦後初めて沖縄を訪問された際、火炎瓶を足下に投げつけられました。しかし、美智子様は基地の負担に苦しむ沖縄の事を常に気にかけていられます。

このように『恋空』で美嘉が経験する困難と、美智子様が経験された困難に共通点のある事から、「美嘉」という役名の「美」は、母方が日本赤十字社を設立した佐野常民と同じ佐嘉(佐賀)出身で、皇后在位中に日本赤十字社の名誉総裁を長年務められた、美智子上皇后に由来すると考えられます。「美智子の佐嘉(佐賀)」を略して「美嘉」という役名になったのでしょう。

美智子様と小山内さんの関係はわかりません、しかし、美智子様と秋山ちえ子さんは交流があり、秋山さんのお別れの会では供花が飾られ、一般の方の献花の後、会場を訪れられています。

東京都内のお出まし(平成26年~平成31年)

秋山ちえ子さん お別れの会(村上信夫オフィシャルブログより)

日本赤十字社を暗示する「美嘉」の役名は、『金八先生』を通じて、生命を慈しみ、マイノリティの人権と尊厳、共生を訴えた小山内さんへのオマージュと考えられます。

桜井弘樹(三浦春馬)

桜井の意味
美嘉の姓「田原」の説明で述べたように、春馬さんが演じた桜井弘樹の姓と同じ、桜井という地名が田原坂の近くにあります。桜井は現在の田原坂公園の整備に大きく貢献した旧植木町の初代町長、境米蔵さんの生家のある場所です。

https://maps.app.goo.gl/C4vk6iJ3hHLTgytz9

田原坂公園にある境さんの銅像には、以下の様に記されています。


西南役田原坂史跡顕彰には当時荒廃に帰しつつあったこの地域を整備し官薩両軍戦没者慰霊塔の建立記念館の建設周辺の公園化には一般有志の浄財の外、多額の私財を投じ…

『恋空』の多くの場面は、特攻関係の戦争遺構の残る場所で撮影が行われました。しかし、十分な整備が行われず、荒廃している戦争遺跡もあります。桜井さんが整備した田原坂公園のように整備して、尊い犠牲の後生に伝えていって欲しいとの願いが込められているのでしょう。

その他、田原坂公園については、以下のリンクの田原坂観光ガイドの会ホームページに説明があります。

田原坂観光ガイドの会ホームページ

弘樹の意味
次に、下の名前「弘樹」について考えます。『恋空』での「弘樹」の読みは「ひろき」ですが「こうき」と読むこともできます。

『恋空』で病魔に侵されたヒロは、美嘉を守ってやることができなかったと、何の言い訳もしないで、黙って姿を消します。ヒロのモデルは大切な人の事を思って、だまって身を引いた人、言い訳しなかった人だと考えられます。

九州で、戦争に関わって、大切な人の事を思って、だまって身を引いた人、言い訳しなかった人と言えば、唯一の文民A級戦犯でありながら、一切の自己弁護をせず、戦争責任を受け入れ、処刑されていった廣田弘毅です。

廣田弘毅

ここで重要なのが、春馬さんが2020年4月26日のインスタライブで語った、とちおとめとあまおうの意味です。春馬さんは歌つなぎ動画の中で「僕は、見た目はそっくりだけど『とちおとめ』を『あまおう』と言い張ることはできない」と話しました。


とちおとめは、栃木県のいちごで、あまおうは福岡県のいちごです。この事から、栃木県出身の誰かと、福岡県出身の誰かを暗示していると考えられます。

また、苺は日の丸の丸と同じ赤色です。そこで苺は国に殉じた人の例えと考えられます。さらに、春馬さんが靖国神社に参拝していたことから、その国に殉じた人とは、A級戦犯として処刑された人を、指すと考えられます。

廣田弘毅は、福岡県出身なので、あまおうだとすると、とちおとめに対応するのは、栃木県生まれのA級戦犯だと考えられます。調べると、旧日本陸軍出身のA級戦犯、小磯國昭が出身地は山形県となっていますが、栃木県生まれです。

東京裁判前の取り調べで、検事が小磯に「将軍は、朝鮮のトラと呼ばれている。トラは侵略的ないきものである。その理由をお答え願いたい」と質問しました。

すると小磯は「たぶん、歴代の朝鮮総督のうち、ご覧のとおり私が一番の醜男だ。この顔がトラに似ているからでは」と答えました。

純粋無垢な若者に、決して生きて帰れない特攻を命じた、戦争指導者が、自分の命恋しさに、話しをはぐらかしたのです。その結果、小磯は死刑にはならず、終審禁固刑刑となり、獄中で病死しました。

春馬さんは、あまおうとと、ちおとめの例えを使って、「同じA級戦犯でも、自分の命恋しさに話しをはぐらかした小磯國昭を、いっさいの自己弁護せずに、だまって処刑された廣田弘毅と同じだとは言えない」と伝えていたと考えられます。

この歌つなぎで春馬さんが歌ったのは、ゆずの『からっぽ』です。この歌の発表は『恋空』公開前の1999年です。しかし、歌詞の内容は美嘉と離れているときのヒロの気持ちを表した様な内容です。

この事からも、やはり、『恋空』の弘樹は、廣田弘毅の「弘毅」から取れていると考えられます。

小山内さんは「入試十日前心得」で、フグを食べた人の比喩を使って、特攻隊員達の尊い犠牲に感謝する事の大切さを,私達に訴えました。これは、特攻隊員達の理不尽な犠牲が、私達に先の戦争が間違いだったことを厳に教えるからです。

唯一の文民A級戦犯だった廣田弘毅が、東京裁判で一切の自己弁護を行わず、判決を受け入れ処刑されて行った事も、私達に先の戦争が間違いだったことを教えます。

この廣田の自己犠牲に敬意を表して、弘毅に由来する弘樹が「桜井弘樹」の役名に使われたと考えられます。

美智子さまと廣田弘毅を繋ぐ「論語」

美嘉やヒロの姓の由来となっている田原坂の戦いと、廣田は直接関係有りません。しかし廣田が所属した福岡市発祥の政治結社、玄洋社は田原坂の戦いと関係があります。

玄洋社創設者の遠山満は、西郷隆盛を尊敬しており、西郷と共に田原坂で政府軍と闘いたかったそうです。しかし、頭山は田原坂の戦いに参加出来ず、ずっと悔やんでいたと言われています。

遠山満

映画の中で、美嘉とヒロには、強い繋がりがあります。一方、美智子上皇后と玄洋社の廣田弘毅そして頭山満にも、強い繋がりがあります。三人を繋ぐのは、孔子とその弟子達のやりとりが記された『論語』です。

美智子上皇后の母方の出身地は、佐賀県の中央部にある多久市です。多久には、孔子を祭った多久聖廟があり、邑校の東原庠舎では、領民は身分に関係なく学ぶ事ができ、論語が教えられていました。

孔子を祀る多久聖廟

そのため、多久は論語の里、丹邱の里と呼ばれ、「多久のスズメは論語をさえずる」「多久の百姓はクワを持ちて道を説く」と言われます。

佐野常民が学んだ頃、藩主鍋島直正に請われて、東原庠舎出身の草場佩川が、佐賀藩校弘道館の教諭を努めていていました。大隈重信、副島種臣、大木喬任、江藤新平らを輩出した時期の弘道館教育の中心人物です。漢詩・画に優れた草場佩川は佐野常民の養祖父、佐野常昭の肖像画も描いています。

美智子上皇后の母方のご実家は、多久聖廟のすぐ近くにあり、美智子様も小さい頃は遊びにお見えになっていました。またお子さまである、秋篠宮殿下のお名前と称号の礼宮文仁は、論語・顔淵第十二の十五

「博く文を学びて、これを約するに礼を以てせば、亦以て畔かざるべきか」

に由来してます。

玄洋社も論語を教えていて、廣田の弘毅という名前は、廣田が論語・泰伯第八の七

「士は以て弘毅ならざるべからず」

から、廣田が自分で選んでつけたものです。

また、玄洋社の総帥、遠山満は晩年「温知新」という書を残しています。これも論語の「温故知新」から取られていると考えられます。遠山は若いときの粗暴だったので、その時代を大切に取っておく必要はなく、新しい事を知るのを楽しみとする知新の気持ちだけを持ち続けていたいと思い「温知新」と書したのでしょう。

若い頃粗暴だった遠山が、論語と親しむことによって穏やかになる様は、金髪の不良だったヒロが、美嘉とつきあうようになって、穏やかな青年になる様と共通しています。ヒロのキャラクターの要素に遠山が入っていると考えられます。

川のような人

『恋空』の中で美嘉はヒロの事を「川のような人」と何度も言います。そして「川が好きだった。川みたいな人で、どんどん先に行っちゃうから、置いていかれた」と言う場面があります。しかし、この台詞には違和感があります。

ヒロは病気になったので、だまって身を引いたのであって、どんどん先に行ったわけではありません。「川のような人」は、誰か別の人を例えていると考えられます。

『恋空』でヒロは美嘉を川の土手に連れて行って、河原を見ながら「ここが自分の一番好きな場所だ」と言います。

横浜市鶴見区の鶴見川下流で生まれ育った小山内さんは『さようなら私の『金八先生』51ページに以下の様に書いています。

私は「金八番組」の絵の中にどうしても青々と広い河川敷が欲しかった。

河川敷が好きなのは小山内さんで、ヒロの台詞はここから取られていると考えられます。

小山内さんは丁寧な取材に基づいて、その時代の中学生や社会の抱える問題をドンドン取り上げて行きました。

ドラマを通じて世界平和を訴える事に留まらず、1993年には学校を作る会を立ち上げて、カンボジアに学校を作る活動を始めて、2005年に『金八先生』を卒業しました。

『恋空』監督の今井夏木さんは『金八先生』第5シリーズに演出参加し、小山内さんが脚本を降板した後の、最終第8シリーズで監督を務めました。今井さんは、小山内さんから『金八先生』に取り残された形です。

つまり、「川みたいな人で、どんどん先に行っちゃうから、置いていかれた」のは、『恋空』公開と同時期に放送されていた『金八先生』第8シリーズの制作陣から見た小山内さんです。

このように見ていくと、ヒロに対する「川のような人」という表現は、小山内美江子さんへのオマージュと言うことがわかります。

福原 優(小出恵介)


美嘉のもう一人の恋人、小出恵介さんが演じた福原 優は、美嘉が「海のような人」と表現したように、穏やかな性格です。

美嘉と出会った頃、優は恋愛に不器用でした。しかし、美嘉が「かすみ草が好き」といったことを覚えていて、デートの時プレゼントするなど、努力を重ねて美嘉の心を掴みます。

かすみ草の花束をプレゼントして美嘉の心を掴んだ優

また、父の会社の倒産で美嘉の家族がバラバラになりそうになった時、バラバラに破かれた美嘉の家族写真を1つにつないで見せて、美嘉の家族の心が1つにまとまるきっかけを作ります。

バラバラに破かれた家族写真をつないで、美嘉の家族が再びまとまるきっかけを作った優

優と交際したことをきっかけに、美嘉は真面目に勉強して大学へ進学します。

美嘉の勉強を見てあげて大学進学のきっかけを作る優

そして、美嘉にプロポーズしたクリスマスの夜に、美嘉が心の底ではヒロを求めていることを知ると、美嘉に自分の元にとどまるのではなく、ヒロの元へ向かうよう促します。

クリスマスの夜、美嘉にヒロのもとへ行くよううながす優

優の姓「福原」とこれらのエピソードの暗示が結びつくのは、『恋空』公開当時、現役の卓球選手として活躍していた福原愛さんと、日本卓球界のレジェンドで、ピンポン外交官と呼ばれた荻村伊智朗さんです。

福原愛さん

優の人柄の穏やかな性格で、不器用な努力家そして、後輩の目標となった点は、福原愛さんをモデルにしていると考えられます。

穏やかな性格の福原さんは、卓球選手として恵まれた体格というわけではありません。しかし、子供の頃から努力を重ねて、国際的な卓球選手となります。優が努力を重ねて美嘉の心を掴むのは、努力を重ねて国際的な選手となった福原さんの比喩だと考えられます。

また、優に憧れて美嘉が大学に進むのは、全国の子供達が福原さんに憧れて卓球を始め、石川佳純さんら続く世代が国際的に活躍するようになった事の比喩だと考えられます。

美嘉の家族と、美嘉とヒロの関係に優が果たした役割は、戦後すぐに、男子シングルスの世界王者に7回輝いて、日本を勇気づけた、日本卓球界のレジェンド、荻村伊智朗さんが、卓球指導者となった後、世界平和と東アジアの安定に果たした2つの貢献の比喩だと考えられます。

荻村伊智朗さん

優が、バラバラになりかけた美嘉の家族が、一つにまとまるきっかけを作ったのは、荻村さんが、いわゆる南北朝鮮統一チームの奇跡を実現したことの比喩と考えられます。

荻村さんは、14回以上単独で北朝鮮を訪問して、同じ民族でありながら分断国家になっている韓国と北朝鮮が一つのチームとして参加する、いわゆる南北朝鮮統一チームの奇跡を、1991年に世界卓球選手権千葉大会で実現しました。

また、美嘉をヒロのもとに向かわせるのは、1972年の米中国交正常化のきっかけとなった、1971年世界卓球選手権名古屋大会のピンポン外交の比喩だと考えられます。

荻村さんは、当時、文化大革命で国際社会から孤立していた中国の選手を名古屋大会に出場させ、アメリカ選手と接触するきっかけを作りました。これが米中接触に繋がり、さらに翌年1972年の米中国交正常化に繋がりました。

また、優が美嘉に勉強を教えるのも、荻村さんが周恩来から請われて、中国の選手を指導した結果、中国が卓球強豪国になった事の比喩と捉える事もできます。

小山内さんは、尊い犠牲に感謝して、日本をもっと文化的な国にして、世界平和に貢献する大人になって欲しいとの願いを「入試十日前心得」に込めました。

荻村さんは、中学一年生の時、B29に体当たした零戦から、搭乗兵が投げ出され、真っ逆さまになりながらも、しっかり敬礼している姿を目撃しました。そして、お世話になっていた卓球場のおばさん上原久枝さんに以下の様に繰り返し伝えています。

あの光景だけは忘れない。

だから日の丸をつけて戦うとき、僕は戦争で命を犠牲にした人たちの事を考えてしまうんです。

城島充著『ピンポンさん』(単行本)170ページ

荻村さん達が活躍した1950-60年代、黄金期だった日本卓球は『恋空』公開当時、かつて荻村さんが指導した中国などの台頭によって長い低迷期にありました。

またタモリが80年代に「卓球は根暗」と言った事が広まり、卓球をする若者は、いわれのない中傷をうけ肩身の狭い思いをしていました。佐賀戦争が佐賀の乱と呼ばれたり、五代友厚が悪の政商と呼ばれたりしたのと同じ構図です。

そのような状況にあって、日本卓球を再活性化させ、後のリオデジャネイロ五輪で、日本に女子団体銅メダルをもたらしたのは、福原愛さんの功績に負うところが大きいと言えます。

『恋空』が公開された2007年は、日本卓球の黄金期を築いた荻村さんが世界卓球殿堂入りした1997年から十周年の記念の年でした。また福原愛さんが高校を卒業して大学生となった記念の年でした。

福原優の役名は、卓球を通じて世界平和に貢献した荻村伊智朗さんと、日本卓球を再活性化させた福原愛さんへの感謝が込められていると考えられます。

そして、この役名は、小山内さんが「入試十日前心得」で主張した「世界平和に貢献する大人になれ」へのオマージュと考えられます。

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